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最新記事【2006年12月07日】

 最近は小学校などでは外国人教員による国際理解の授業が行われている。

 これはある小学校での話。
 週末、生徒たちの様子がどことなく疲れているように見えた。

 そこで、女性教員が次のような宿題を出した。
 「家の大人に抱きしめてもらいなさい」
 すると、生徒たちの間からは、
 「うそ~」「やだよ~」「できないよ」などの声が上がった。

 しかし、週明けの月曜日、ほとんどの子供が宿題をこなしてきた。
 ほとんどの生徒たちが元気を取り戻しているように見えた。

 抱きしめるだけでいい。
 よけいな言葉はいらない。

 それだけで人は元気になれるのだ。

 今は亡き美空ひばりにはこんなエピソードがある。

 それは友人の家に行くため、タクシーに乗ったときのこと。
 降りる時に財布を忘れたことに気がついた。
 「私は美空ひばりです。友だちの家に来たんだけど、
 お財布を忘れちゃって。友だち方お金を借りてきますから。
 ちょっと待っててください」

 ところが、運転手は本気にしない。
 このときのひばりはスッピンで地味な服装だったのだ。

 「どうしたら信じてくれますか?」
 「そうだな。歌を歌ってくれたら、本物か偽物かわかりますよ」

 ひばりは仕方ないので、『リンゴ追分け』を歌った。

 歌を聴いた運転手は驚いた。まさしくあの美声である。

 「あれー、ホントにひばりさんだ。疑ったりしてすみませんでした」
 大感激した運転手はひたすら謝った。

 「それで料金はおいくら?」
 「とんでもない。結構です。
  ひばりさんの歌をタダで聴くわけにはいきません。
  しかも、私1人のために歌って頂けるなんて。
  どうもありがとうございました」

 さすがは美空ひばりと思わせるエピソードである。

 そんなひばりは生前、「カキクケコの精神」で、
 新しいものに目を向けることを人に勧めていたという。

 「カ」は感謝することに照れない。
 「キ」は緊張感を楽しむ。
 「ク」はくつろぐ。
 「ケ」は決断力。
 「コ」は好奇心を持ち続けること。

 これって僕らが生きる上での指針にもなるね。

 歌手の千昌夫さんはまさしく天国と地獄を味わった。
 かつては大変な資産家として超リッチな生活を送っていたが、
 バブル崩壊で巨額の借金を背負うはめになった。

 そんな千さんが上京した時の話。

 小さいころから歌手になると決めていた彼は、
 高校の修学旅行で上京する時、うまい手を考えついた。

 あらかじめ宿泊する旅館に「ハハキトク スグカエレ」という電報を
 打っておき到着するや先生に見せた。

 そして、作曲家の遠藤実さんの家に直行。自分の歌を聴いてくれと頼んだ。
 3日間粘った末、遠藤さんは根負けし、歌を聴くことになった。

 ところが、自己流で歌ってきたので、ピアノの伴奏と合わない。
 すると、千さんはこう言ったのだ。
「先生、そのピアノ止めて、俺に一人で歌わせてください」

 遠藤さんはとにかく高校だけは卒業するように、千さんを諭して帰らせた。
 やれやれと思っていると、ほどなく岩手県から荷物が届いた。

「そうか、いろいろ迷惑かけたお礼にリンゴでも送ってきたんだろう。
 見かけによらず感心な奴だ」

 遠藤さんが中を開けると、なかには布団一式が入っていたのである。
 驚いていると、千さんが玄関から姿を現わし、こう言った。

 「先生、それは俺が寝る布団ですよ」

 大成する人間にはこれくらいの図々しさと粘りが必要なのだろう。

 そんな千さんは、今は自ら「歌う借金王」と名乗って営業を続けている。
 人間、これくらいタフに生きられたらいいよね。

 「経営者には愚かしさに耐えて、時には愚か者になる能力が必要である」
 かつて慶応大学商学部の清水教授はこう言った。

 社長の条件は何か? と聞かれれば、普通は能力と答える人が多いと思う。
 しかし、清水教授は「愚か者」であることの必要性を説くのだ。

 じつは、この言葉の裏にはこんなエピソードがある。
 清水教授が愛知県の中堅メーカーに行った時の話。
 そこの社長がこう言った。
 「社員はわしが何か提案すると、よってたかって反対する。
  みんなわしをバカにするんですわ」

 しかし、怒ってはいない。ニコニコしている。

 「そんな時、社長はどうするんですか?」
 清水教授が尋ねると、
 「うん、反対させおいてね。もっとも悪い結果を想定している意見はどれか、
  探すんです。で、最悪の結果を招いても会社が潰れないとわかったら
  ゴーサインを出すんです」

 清水教授によれば、この社長は自由な議論ができる雰囲気を作り出すために、
 わざと愚かさを装っているのだという。

 「頭が良さそうに見せたり。やさいいことをわざと難しく言ったりする人に
 ろくな経営者はいない」
 清水教授はこう言う。

 この話は社長に限らず部課長クラスでも言えそうだ。
 人間は時には能力がないフリをすることも必要なのだろう。

 人気作家村上春樹氏にはこんなエピソードがある。

 それは高校3年の時のこと。
 早稲田大学の文学部を受験すべく、勉強のラストスパートに入っていた。

 そんな彼のために母親が破魔矢を買ってきてくれた。
 息子の合格を祈る親としては当然の行為である。

 ところが、村上氏のとった行動は意外なものだった。

 何とその破魔矢をわざと折ってしまったのである。
 理由がいかにもクールな文体で知られる村上氏らしい。
 「それで落ちるくらいならその方がいい」

 結果は見事合格。

 結局、運というのは自分で「運ぶ」ものなのであろう。

 シャンソン歌手で料理家の平野レミさんは、
 いつも明るくハイテンションな女性だ。
 そんな彼女はこんな質問された。
 「レミさんは落ち込んだりすることはないんですか?」
 答えは実に単純明快だった。
 「落ち込んだ時はワインを飲んでぐっすり寝ちゃう」
 そして、こう続けた。
 「ワインも料理もそうだけど、一晩寝かせれば味が良くなるでしょ」

 アテネ五輪で長嶋茂雄に代わって監督を務めた中畑清。
 現役時代の彼を一躍有名にしたのは「絶好調!」というセリフだった。
 実はこの言葉は中畑が考えついたものではない。
 まだレギュラーをとる以前の新人時代、当時の長嶋監督との会話から誕生した。
「キヨシ、調子はどうだ?」
「まあまあです」
「まあまあなんて言うな。多少調子が悪くても絶好調と言うんだ。自分で
そう言っているうちに本当に絶好調になってくるもんだ」
 以来は中畑はどんな時でも「絶好調!」を連発するようになった。
 その元気な姿は首脳陣だけでなくマスコミも注目するようになった。
 そして、彼は巨人軍のレギュラーの座を獲得したのである。

 西条八十氏は、「東京行進曲」「青い山脈」「誰が故郷を想わざる」などの
昭和史に残る歌謡曲の作詞を手がけたが、「お月さん」「肩たたき」といった
誰もが知っている有名な童謡の作詞も手がけている。
 そんな彼は早稲田大学卒業後、詩作に励んでいたが、お金にならなかった。
 そのため、彼は天ぷら屋を開いたり、株に手を出したりしていた。
 大金を得て浮かれている八十さんに妻の晴子さんはこう言ったという。
「私は株でもうけた1万円より、
 詩を書いて頂く十円の原稿料の方がうれしいのです」
 八十さんが作詞した有名な童謡「かなりあ」は「唄を忘れた金糸雀は 
後の山に棄てましょか」という一節があるが、上記のエピソードがキッカケで
誕生したのだそうだ。

 昨年、阪神を18年ぶりの優勝に導いた星野仙一氏は、自らの成功について
「自分は運がいいだけ」と控えめに語っている。
 では、運を強くするにはどうすればいいのか? という質問に星野氏はこう
答えている。
「運を強くする方法? オレに言わせれば人を大事にすることやな。
人との出会いを大事にし、身近にいる人を大切にする。感謝というかな。
ようわからんけど、そこから運が開けていくように思える」

僕は毎日、今を楽しくしたいから、無理やり何かイベントしてますよ。
そう思うようになったのは高校の時、何もやることねえなぁ、
つまんねぇなぁって家でゴロゴロしてた時代が
あったんですよ。何でこんなにつまんねぇんだよと、自問自答したら、
おまえがつまんねぇからだと返ってきた。
そのとおりだと思ったね。何もしないで待っていても何もないわけ。
とりあえず何でもいいから 動かなきゃいけないって。
たとえば、その結果ひどい目に遭ったとするじゃない。
でもそれも私にいわせれば幸せなんですよ。
だって生まれてきたことが幸せなんだから、
何かが起こるということは全部幸せなの。
生まれてこなければ経験できないことでしょう。
もし試験に落ちても、病気になっても、
私はみんな幸せだと考えればいいと思うんですよ。
その人にしかできない経験でしょ。
                         所 ジョージ

 女優の中村メイコさんは2歳の時、芸能界入りしたため、社会生活には疎く、
電車の乗り方を覚えたのは40歳を過ぎてからだった。
 ある日、1人で電車に乗るぞ! と決心したメイコさんは娘のカンナさんに
乗り方を聞いて出掛けた。
 駅に着いたメイコさんは緊張しっぱなし。娘に聞いたことを思い出しながら、
悪戦苦闘の末、何とか電車に乗り終え、家に帰り着いた。
 心配しながら母の帰りを待っていた娘のカンナさんは、
「大丈夫だった。ちゃんと電車に乗れた?」
「大丈夫。ちゃんとできたわよ」
 その数日後、カンナさんがタクシーに乗っていると、ラジオから「町で見かけ
た有名人」という当初が紹介された。
「私が町で見かけた有名人。先日、中村メイコさんを地下鉄で見かけました。
毛糸の帽子を目深にかぶり、おいしそうに肉まんを食べていました」

 「報道特集」のキャスターとして活躍する田丸美寿々さんの父親は彼女が
生まれてまもなくアメリカに留学した。
 美寿々さんが父親の顔を見たのは5歳の時だった。
 母親は「この人がお父さんよ」と言い聞かせるのだが、彼女は「わたし、
お父さんなんかいないもん」と言って家族を困らせた。袖にされた父親の
落胆ぶりは相当のものだった。
 ところが、そんなある日、美寿々さんは突然こう言ったのだ。
「わたし、お父さんとお風呂に入りたい」
 これを聞いた父親は喜びが言葉にならず、ただ娘を抱き締めた。
 美寿々さんは当時のことをこう振り返っている。
「父親というと、あのときの涙でクシャクシャになった顔が浮かぶんです。
どうしてそんなことを急に言ったかは覚えてないけど、親子はやはり血で
結ばれているから。父親ですか? 大好きですよ」

 ヴィクトル・ユーゴーは美しい女を見るとすぐにラブレターを出すほどの
情熱家だったが、実らぬ事が多かった。そのため彼は時には違う女性に同じ
恋文を同時に出す事さえあった。
 バルザックも執筆の合間にマメに恋文を書いたクチだ。彼曰く「恋をする
なら手紙くらいにしといた方がいい。そうすれば、恋がどうなっても文章の
勉強にはなる」

 スタンダールが『恋愛論』を書いたのも失恋の痛手からだった。
 それもそのはず彼は女の口説き方がわからず、いつも友人から聞いては
ノートをとっていた程だったから。

 オペラで有名な『椿姫』は1人の男への愛に殉じる純情な乙女の物語だが、
実際は小デュマが失恋した美しい娼婦がモデルだという。
 あっさりフラれた彼は復讐心に燃え、純愛作品を書き上げたのだ。
 但し、結核で若くして死ぬ所だけは同じだった。

 北島三郎といえば、日本歌謡界の大御所的存在だが、そもそもは流しのギター
弾きからデビューを果たした苦労人だ。そんな彼の初舞台でのエピソード。
 開演前、北島は覚悟していた。「お客さんは誰も北島三郎なんて歌手は知らな
い。だから客席の反応は冷たいだろう。でも、一生懸命歌えば、それでいい」
 そう自分に言い聞かせて彼は舞台に上がった。ところが……
「サブちゃん!」
 ステージに上がった彼に客席の右側から黄色い歓声が飛んだのだった。
 まさか自分にファンがいるなんて。そう思っていると、今度は客席の左側から
「サブちゃん!」という声が飛び、テープが飛んできた。
 戸惑いながら歌い続ける北島に向かって、後ろから前から次々と声援が飛んだ。
「サブちゃん!」「サブちゃん!」
 一体どんな人が自分に声援を送っているのか?
 客席を見渡した彼はたった1人で声援を送り、場内をかけずり回っている1人
の女性を発見した。それは北島の妻だった。

 「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格はない」
 これはハードボイルド小説の名手として知られたレイモンド・チャンドラー
の有名なセリフだが、日本のハードボイルド作家としておなじみの北方謙三は
実はかつて純文学作家を目指していた。
 彼は昭和45年、『明るい街』でデビューを果たしたが、それ以降の10年以上
書いても書いても芽が出ないという苦難の連続だった。
 そんな苦労が限界に来た時、彼は自分はダイヤモンドでも金でもないと悟った
という。「自分は石ころだ。でも、ただの石ころだって磨けばかならず光る。
その輝きでいいんだ」
 こうして彼は純文学と決別し、エンターテインメント小説を書こうと決意した
のだ。そして、ハードボイルド作家としての処女作『弔鐘はるかなり』を発表。
この作品で一躍脚光を浴びたのである。
「石ころだって磨けばかならず光る」という言葉を文字通り実践して成功を収め
た北方謙三。それにしても、実に味わいのある明言だ。

 夏目漱石が東大の教授をしていたとき、講義中に片手をふところに入れている
学生がいた。「横着な!片手をだしたまえ」と怒鳴ったが、彼は片手がなかった。
 漱石は学生にこう言った。「僕もない知恵を出して講義をしているのだ。君も
ない腕を出してくれたまえ」

 詩人ダンテが夕食に招かれたときの話。当時は食べかすの骨などは足元に
捨てていた。日頃からダンテを憎く思ってた友人は彼の足元に自分の残した
骨を全部足でそっと押しやった。
「芸術家のわりには大食いでいらっしゃいますな」と皮肉たっぷりに言った。
 しかし、ダンテは少しもあわてずこう言った。
「いや、あなた程では!わたしは骨までは食べません」

 米国の政治家フランクリンは若い頃、本を買うため食費も惜しんだ。
 友人がビールを飲むときも彼はパンと水だけ。
「酒くらい付き合えよ」と友人が言うと、フランクリンはこう言った。
「ビールの原料は麦と水だろう?同じようなもんだよ」

『ごきぶりホイホイ』の名前は当時会長だった大塚正氏のアイデアである。
 ネーミングの相談にきた社員にこんな提案をした。
「ホイホイはどうかね。ホイホイ捕れて、ホイホイ売れて、ホイホイ儲かる」
 社内評判はイマイチだったが、会長の案だからと決定したら、大当たりした。

『エバラ焼肉のタレ・黄金の味』は、当時NHKで放映されていた大河ドラマ
『黄金の日々』から社長が思いついたものだそうだ。このひらめきには、社員
一同感服したという。

「自宅でトイレに入ってネーミングを考えていたら、ウチの娘が『お父さん、
ごはんですよ!』と呼んだんだよ」 
 桃屋の大ヒット商品『ごはんですよ!』のネーミングを自ら考えた社長の
名前誕生エピソードである。

 落語家の桂文治は一夜共にした約千人にも上る女性の名前、年月日、場所を
ノートに付けていた。だが、味わいとかテクニックについてはなにも書かれて
いなかった。「わたしはやりさえすれば何も文句は言わない事にしています」

 非婚主義者として知られた哲学者サルトルも大変な女好きであった。
 同居生活をしていたボーヴォアールに「僕たちの恋は必然だ。しかし偶然の
恋も経験する必要がある」と言いきかせて、しっかり浮気もしていた。

「わたしたちは一度に複数の女性を愛することができるものなのでしょうか?」
 プレイボーイとして名高かったルイ15世はこう訊ねられた事がある。
「当然だ!私たちはボルドー酒もブルゴーニュー酒も同じように愛しているじゃ
ないか」

 かつてアホ役で一世を風靡した藤山寛美も生前、莫大な借金を抱えていた。
 当時、暴力団まがいの男がよく楽屋に押しかけてきたが、顔色一つ変えず、
こう言い放った。
「払いますがな。そやから、そこのいて下さい。舞台で稼ぎますさかいに」
 そんなに寛美に随筆を頼もうと雑誌社が原稿を依頼したことがある。
 すると、彼はこう言った。
「手形はぎょうさん書きましたが、原稿は書いた事がないので、悪しからず」

 関西お笑い界の大御所、笑福亭松鶴はテレビ局の専属になった時の話。
 他の噺家は小切手で専属料をもらったのに彼だけは「キャッシュでおくれ」
と注文した。局のロビーにはずらりと借金取りが待っていたからである。
 松鶴はいつも借金取りに追われていたが、「今はない!」の一言であとは、
知らん顔していた。借金取りがあきらめて帰ろうとすると、彼はこう言った。
「コラ! ゼニがあったら少しは置いていかんかい」

 歌手吉幾三は青森から出てきたばかりの頃、喫茶店でバイトしていた。
 ある時、客にウインナーコーヒーを注文され、コーヒーにウインナーをつけ
てだした。もちろんマジで! 客は怒ると思いきや、おいしそうにコーヒーを
飲み、ウインナーを食べて満足して帰っていった。

 西田敏行は下積み時代、電気代が払えず、アパートの電気を停められた。
 仕方なく暗闇の中で毎晩過ごしていたが、ある日外を歩いていた西田は、
工事中の電灯を見つけ、ひらめいた。そう、これを自分の部屋に持ち込み、
電気代わりに使ったのである。

 タレント武田鉄矢が九州から上京してきたばかりの頃のエピソード。
 カップヌードルをこっそり買って家で開けて武田さんはびっくりした!
 何故なら中にヌード写真が入ってると思ってたからである。

アドセンスイメージ画像2


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